アンサンブル歌手(バス)、合唱指揮者、アートマネジャー、通訳/翻訳(おもに日英)
ピアノを3歳、合唱を13歳、合唱指揮を17歳、マンドラテノーレとマンドリンオーケストラ指揮を19歳で始める。
合唱指揮のおもなレパートリーは、ルネサンス(ローマ、ヴェネツィア)、バロック(ヴェネツィア)、ハンガリー音楽(コダーイ、バルトーク、バールドシュ・ラーヨシュ、コチャール・ミクロシュ、ジェンジェシ・レヴェンテ)、マルタ音楽、アルメニア音楽(コミタス)など。日本の作品はほとんど振ったことがないが、民俗音楽(民謡)に根差した作品や日本語を題材にした作品などに取り組んでみたい。正教会音楽にも興味があり、勉強している。サイトスペシフィックなパフォーマンスや演奏会のプロデュース、パフォーミングアーツとの融合を目指したパフォーマンスにも意欲関心がある。
アンサンブル歌手としては、合唱を始めて以降、バスしか歌ったことがなく、テノールやバリトンに少し憧れがある。自分の話し声などさんざ知らなかったが、録音を聴くと、確かに低い。どんな音楽を聴いても、バスの音を拾おうとする癖が身についている。ピアノを始めた頃の記憶はなく、練習があまり好きではなかったが、なぜかレッスンには通い続け、突然、小学5年生の時には、クラシック音楽への情熱が漲り、どちらかというと高揚感のある曲(ベト5第1楽章、カルメン序曲、ウィリアムテル序曲後半など)をかけて、寝床についていた。その時分から、CDに合わせて指揮の真似をするようになった。小学5年生というと、孟子や韓非子、老子、荘子を読み出したのがこの頃である。元々、母親が「ある程度、字が書けるようになってほしい」というちょっとした気持ちで、書道教室に通わせたのだが、どんどんとのめり込むようになった。保育園に通っていた頃に相撲の番付表を見て漢字を覚えたことから始まり、漢字辞典、漢詩へと興味が移り、漢字がたくさんあるという動機で思想家にも興味を示した。ただ、その当時、「論語は嫌や」と思い、とりあえず孟子を読んで見たものの、一丁前にもどことなく嘘くささを感じ、老子荘子、韓非子を読むに至った。この頃にはたいへん感化されて、哲学者になりたいと思っていた。思えば、この頃には言語への興味も芽生え始め、楽譜にはイタリア語がいっぱいという理由で、イタリア語を勉強しようと思い立ち、中学に上がる頃には、ルクセンブルク語を少し調べ、その後、「キリル文字を読めたらカッコいい」という単純な理由で、ロシア語を学ぼうとする。この言語への興味は今も継続しており、今や趣味である。また同時期には国際政治に興味を持ち始めた。新聞の国際面は貴重な情報源で、ウクライナのオレンジ革命がきっかけで黒海周辺の国際政治に関心を特に示すようになった。高校1年の時に、総合学習で論文を書かされる授業があったので、その時分に、黒海周辺の国際政治をテーマに取り上げた。その後、同地域の国際政治を学びたいと思い、大学進学し、静岡へ。最初のうちはよかったが、師とも呼べる人物に出会い、初期キリスト教やイスラーム文化などに興味を持ち始め、しまいには日本文化、とくに倫理史にのめりこんだ。これは横断的に物事を観ることの面白さにのめり込んでいくことでもあったが、何よりも遺跡へのロマンが大きいと思う。今でも遺跡を訪れるのは趣味である。静岡の環境は悪くなく、静岡舞台芸術センター(SPAC)や県立中央図書館、県立美術館、静岡芸術館AOIなど、文化芸術に触れる機会が多かった。ブルデューの文化資本の話を持ち出すつもりはないが(持ち出しているが)、伊勢にいると触れられないものはたくさんある。これはのちに東京に行ってからも痛感することとなった。とまれ、そのまま就職はしたくなかったので、進学を考えた。アートマネジメント及び文化政策にハマっていたので、その筋の大学院を受験した。大学院は書くのも気が引けるほど長いところに進学。受験時の面接では、進学動機を尋ねられ、「面白そうなので…」と答えたが、受け入れてくれた。大学院に進学すると環境は当然変わり、とても楽しいものだった。とくに「トーハク」の収蔵品を無料で観ることができたのはたいへん有意義であった。仏像は楽しい。さて大学院修了後は、マルタへ渡航。このころ、プロジェクトを抱えていたのだ。なぜかまだマルタにいる。
さて、音楽である。とくに10代の頃は、ピアノを弾かせるとたいへんな自己陶酔型であったが、なんとなく指揮をするにつれ、ピアノ演奏時の音楽の捉え方が変化した。また、ルネサンス・ポリフォニーを歌うのが大好きなのだが、この出会いは遡れば中学生の時にウィリアム・バードの「3声のミサ」のキリエ、アーニュス・デイを歌ったことがきっかけだ。その当時はルネサンスもポリフォニーもまったくよくわからなかったが、なんとなく「面白い」と思った感覚が残っている。その頃には現代音楽にも興味を持ち始めたが、この趣味がより高解像度で見えてくるのは大学入学後、静岡市にあったスノドカフェでの「現代音楽の集い」に顔を出すようになってからである。7ヶ月間、語学留学という体裁をとり、マルタに滞在。その時に出会った民俗音楽アーナが頭から離れず、当初は予定になかったものの修士論文の研究で取り上げてしまう。 合唱指揮については諦めかけていたものの、心の内では灯火を絶やさず、合唱を続けるなかで、「やはり我は合唱指揮者ぞ」と、ハンガリーはニーレジハーザでのマスタークラスが終わるたびに思っていたものの、なかなか人生うまくはいかず、腰も重たく、受験もうまくいかなかったが、なんとなくであるものの、2022年のマスタークラスが大きな転機となりつつある。マルタの国立合唱団コールマルタでは、特にパンデミック期以降、多忙となっており、学びと刺激も多い日々である。ただ、ルネサンス、バロックのレパートリーが多い。1年のうちにヘンデルのオラトリオを3つ歌うのはなぜ。同合唱団のイタリアツアーでは、ルネサンスとモンテヴェルディのプログラム、それらと現代音楽のプログラム、ヴェリズモオペラというのを1週間でこなすという貴重な経験をした。コンサート、移動後オペラのステージブロッキング(野外)、ゲネ、コンサート、オペラ本番、移動後にコンサートというスケジュールだったので、体調管理の面で勉強になった。前述のマスタークラスでは、さまざまな機会をもらえたのでありがたかった。靴を忘れたので、デーネシュの黒靴を貸してもらった。
なお、ドイツのテレビドラマシリーズ『Das Boot (Uボート 深海の狼 ) シーズン3』では、Japanese Sailor役でゲスト出演。うっかりIMDbにも名前が掲載される。また、マルタで制作したドキュメンタリーのナレーション及びプレゼンターも務めた。
どういうわけか、マルタの国営放送の日曜夜のニュースで、マルタ語を話す日本人として珍種発見のように取り上げられ、一躍、その顔をマルタ中に売ることとなった。Facebookには友達リクエストが殺到し、マルタ人からの日本アピール攻撃にあう。また、数ヶ月後には朝のテレビ番組の生放送に呼ばれ、マルタ語でインタビューをこなす。翌日、SNSでその様子が出回り、またも珍種発見のように取り上げられた。インスタのフォロワーが一晩で200人ほど増えた。
言語というのは少々厄介で、ある程度、継続してその言語を用いるかその環境にいないと、すっぽりと抜けてしまうことが多いように感じる。フランス語はある程度、読めるが、しゃべるのが大変である。イタリア語やハンガリー語はやぶれかぶれで当たって砕けろ精神である。スペイン語は勉強していないが、わかる気がする(実際、なんとなくわかる)。ウクライナ語やチェコ語、スロバキア語、ポーランド語、ロシア語、トルコ語、アルメニア語は挨拶くらいしかできないのが悔しい。アラビア語はマルタ語との共通点もあるので、実はなんとなくわかることもある。オランダ語もほんの少し齧ってみたが、こちらはドイツ語と英語の合の子のような感じで、ノリでいけるような雰囲気がある。ドイツ語は歌うこともあるし、その点では当然、歌詞の意味も知っているが、いまいち縁がない。はたして日常会話において、Ich unglücksel’ger Atlas! eine Welt, Die ganze Welt der Schmerzen muss ich tragen.という場面があるのだろうか。学習の動機は色々だが、結局は、「ノリ」なのだ。
伊勢市出身。伊勢高校卒業後、静岡県立大学国際関係学部卒業、東京藝術大学大学院音楽研究科芸術環境創造領域修了。その後、マルタ移住。伊勢高校在学時は合唱部。ちなみに母も同高校の卒業生で、合唱部だった。静岡県立大学在学中に同大学コーラス部及びマンドリン部で活動(おもに指揮)。東京藝術大学大学院音楽研究科在籍時には、マルタの民俗音楽アーナとそのフェスティバルの研究に取り組んだ。また、2016年に日本とマルタの音楽プロジェクトを立ち上げ、アーツカウンシルマルタの助成金やマルタ外務省文化外交基金の助成を受け、プロジェクトのコーディネート/プロデュースやドキュメンタリー作成に取り組む。また、第二次世界大戦時下のマルタ人修道女の回想を集めた『穏やかな魂のチカラ』(2021年)を共同翻訳で出版。カンテムス国際合唱祭におけるサボー・デーネシュによる合唱指揮マスタークラスに参加(2016, 2018, 2022)。